僕が本屋にこだわる理由には、いくつかの心当たりがある。
暫定的にいま最も腹落ちする理由としては、時代を逆行する遅さにとても魅力を感じるから、ということだと思う。
モノを持たない暮らしにそぐわない、逆に言えば本は重たくて場所を取る象徴的なものなのだけど、それがいいのだ。
端的に必要な情報だけを効率的に得るような媒体でないのがいい。
朝になる前の、夜の明ける静けさをとても気に入ってる。あたりはまだ群青色に溶けていて、それは朝というより、夜よりも少し明るい色のした何かであった。一番早くにその何かを感じ取った小鳥が「ちゅん」と鳴く。やや間があって、その音を皮切りに、皆がその合図を今かいまかと待っていたかのように鳴き始めるのだ。僕にはその「ちゅん」の前後に潜む朝の気配を感じることができなかった。今日の朝の始まりは、4時32分だった。
生まれてはじめて、本に寄稿するエッセーを書いている。言葉に集中したいので、朝はできるだけ早くに起きて、夜も早くに寝る。一定のリズムのなかで体調を整えて、素直に流れる言葉に意識を向ける。そうして生まれる言葉はどれも暗い夜道を歩いているような、ずんと深い海に沈むような、息が重たくなるような文章なのだけど、まあそれも僕らしさなのであればいいのかなと思う。
まずは思いのままに道のない道を切り分けて、山らしき山の頂上を目指していく。その過程で生まれた道のりはまだ粗雑で起伏の激しいものなので、何度も何度も往復しながら道を整えていく。なだらかな道ができてきたら、もう一度山頂に登って見晴らしを確認する。ああ、あそこの道は少し曲がっているな、とか。ちょっとあの岩が邪魔だな、とか。そういうことを確認しながらより良い道を作っていく。日を置きながらこの工程を、朝早くに起きて行うのだ。
敬愛する佐伯一麦をはじめ、ヴィクトル・ユゴーなど数多くの文人たちが朝に執筆をするという理由がわかるように思う。朝の脳は凛と冴えていて、言葉も流れやすい。例えるならそれは珈琲のネルのように、何度も使い続けていると少しずつお湯の通りが悪くなっていくのだ。夜に寝ることできれいに洗われて、朝一番に使い始めるのがいい。
書籍は今年の間に発売されるようなので、また書店で見かけたら手にとって貰えると嬉しい。それにしても、出版社の方から執筆の依頼をいただけたのもとてもありがたいご縁なので、またどこかで書こうと思う。お声がけしてくださって、とても嬉しかった。
本屋の準備もあるなかで、なぜ本屋である必要があるのか、ということについて考えたくなったので、今日は文章を書きはじめたのだった。最近考えを残す(思考を垂れ流す)録音をしていなかったので、音で残しておくのもいいかもしれない。
僕が本屋にこだわる理由には、いくつかの心当たりがある。暫定的にいま最も腹落ちする理由としては、時代を逆行する遅さにとても魅力を感じるから、ということだと思う。モノを持たない暮らしにそぐわない、逆に言えば本は重たくて場所を取る象徴的なものなのだけど、それがいいのだ。端的に必要な情報だけを効率的に得るような媒体でないのがいい。
そもそも「必要な情報」だという認識から抜け落ちた部分こそが必要な情報だったのだと思う。そこに価値を見出すような人は世の中に少なからずいて、僕もそのうちの一人で、本を効率化してはいけないのだろう。そうした意味において、電子書籍に魅力を感じることはあまりない。
電子書籍は使い勝手が良くて、とても便利である。手元に本がないときにでも活字を読むことができて、場所を取ることもなく、紙が折れたり汚れたりする心配もない。けれど逆に言えば、その重みを手に取ることができない。紙の匂いやざらつきを楽しみ、質感を味わうことはできないのだ。そうした「読む」という行為のなかで削ぎ落とされてしまった部分が、とても大切なものだったのだと気づく。
僕は電子書籍だと、その本のことをよく理解することができない。本の重さや感触、紙の質感や匂い、カバーや装丁の雰囲気がわからないので、とても平面的に見えてしまうからだ。そうした弊害として、どこまで読み進めたのか、ここまでの話はどんな内容だったのかといった記憶を頭からすっと取り出すことができなくなる。僕だけなのかはわからないけれど、記憶の定着がとにかく悪くなるのだった。電子書籍を読んでみて初めて、本であることの大切さ、読むという行為の意味を知ることができたのだった。
本は生活には必要のないものだと思う。本がなくても暮らしていける。コーヒーもそうだ。本を読めばビタミンやタンパク質を得られるわけではない。生きていくには必要のないものだけど、暮らしを豊かにするという意味ではとても大切なものだと思う。だからこそ趣味や贅沢の分類に属するのかもしれないし、物価の高騰と相まって、本から離れていってしまうのかもしれない。
僕はいまEC販売やイベント出店だけで本の販売を行っているのだけど、本当はEC販売にはとても抵抗がある。売り上げを担保する上で、いまの世の中では必要不可欠なものなのかもしれないが、それこそ、『「必要な情報」だという認識から抜け落ちた部分こそが必要な情報』という話と同じで、本屋に期待される役割として偶有性がもっと大切なのだと感じる。
時代を逆行するというのは、つまり、リアルな本屋での出会いを大切にするということなのだと思う。ネットで手に取りたい本だけを買うのではなく、レビューに捉われることなく自分の感性を頼りに本を選ぶ。平積みされていたり、まったく期待していなかった陳列棚に光る本を見つけるとき、はじめて本屋の楽しさに気づくのかもしれない。そして、その本が結果的にとても退屈だったとしても、その経験の全てが読書体験として蓄積されていくのだ。
だから僕は、本屋の持つ偶有性を大切に、いろんな出会いのある場所を作れるといいなと思う。それは大小に関わらず、とても小さくてもいい。どんな空間であったとしても、魅力的な場所というのは人との関わりのなかで生まれていくものなのだろう。
本屋が無くなるという話が尽きない一方で、本屋が生まれるという話も耳にする。出版社は増え続け、新しい本は次々に生まれていく。なぜ継続は難しいと知りながらも、新しく生まれるのだろうか。何となくそこに、資本主義のあり方を問うような、大切な何かが潜んでいるように思う。なにせ、生活に必要のないものを売っているのだから。
(本屋は)生活に必要のないもの。(本屋は)暮らしをより豊かにするもの。それらは同じように捉えることもできるが、まったく等しいわけではなく、どちらかといえば表裏一体であるのだ。そして、その表裏を繋ぐのは個々の表現であり、思想であるのだと思う。惜しまれながら本屋はこれからも閉まっていくだろうし、独自の表現や思想を発信する本屋はどんどん増えていくだろう。
僕個人の意見としては、売れないことを嘆く本屋はあまり好きではない。それが結果的に集客を呼んだとしても、本を買う行為そのものが慈善活動のようになってしまうからだ。それはあまりにも本質的ではないように思う。読書はもっと自由でいいし、これからの時代に生き残る本屋像とは一体何なのかを考えるだけで面白い。本という内容や価格が同じであるならば、お店によって極端に偏ることは不思議である。
僕はインターネットとともに成長を遂げたY世代と呼ばれ、以降の、生まれた頃からそれらと親しい世代をZ世代と呼ぶらしい。本屋という形態も、読書という行為も、これからの世代で次々に変わっていくのだろう。そうした変化を柔軟に感じ取りながら、僕はやっぱり本屋をやっていきたいと思う。